神道の知識について

鳥居について

私達が神社にお参りをする時、先ず鳥居を目にします。鳥居は神社を表示し、また神社の神聖さを象徴する建造物ともいえます。
鳥居は神社の内と外を分ける境に立てられ、鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域として尊ばれます。特に神殿(本殿)を持たず、山など自然物を御神体または依代(よりしろ)としてお祀りしている神社の中には、その前に鳥居が立てられ神様の御存在を表わすものとして重視されています。
鳥居の起源については、天照大神が天の岩戸にお隠れになった際、八百万の神々が鶏を鳴かせましたが、この時鶏が止まった木を鳥居の起源である説や外国からの渡来説などがあります。それそれの神社により形態が異なります。代表的なものは、鳥居上部の横柱が一直線になっている神明(しんめい)鳥居とこの横柱の両端が上向きに反っている明神鳥居があります。このほか形態では明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風のついた山王鳥居やまた朱塗りの稲荷鳥居などの特徴的なものがあります。起源や形態など様々であるが、鳥居を見ると神聖さを感じるのは日本人の共通した考え方ではないでしょうか。
ちなみに思金神社の鳥居は神明鳥居でございます。

神社新報社より

神道の起源はとても古く日本の風土や日本人の生活習慣に基き生じた神観念です。このためキリスト教のキリストのような開祖はいませんし、「聖書」のような経典もありません。「古事記」「日本書紀」などにより、神道の在り方や神々の事を窺(うかが)うことができます。
日本人の生活と深い関わりのある神道は当初から宗教や宗派として認識されていたわけではなく仏教が大陸から伝来したのち、それまで我が国独自の慣習や信仰が御先祖(みおやかみ)の御心に従う「かむながらの道」(神道)として意識されるようになりました。神社の創立の由来はとても古くそれぞれの土地や氏族の神話的な淵源に根ざしたものです。
神道の特色の一つとして外来の他宗教に対する寛容さを挙げることが出来ます。神道は仏教や儒教、道教などをも習合し、中世から近世にかけて様々な思想的な展開が見られ、我が国の文化に大きな影響を及ぼしました。しかし、我が国独自の神観念は変らず現在まで脈々と受け継がれています。また神道の特色の一つとして神々を敬い、祖先を大切にする(敬神崇祖)と言った考え方があります。(神社本庁教学研究所より)


参道の狛犬について

神社にお参りすると参道の両脇に一対で置かれた石製の狛犬を見かけます。狛犬は神社にとって一般的なものとなっています。
普段、私たちは石製のものを多く目にしますが、この他に、社殿内に置かれる木製や陶製のもの、また金属製のものなどがあります。狛犬は高麗犬の意味で、獅子と共に一対なって置かれているとする説もあり、その起源も名称が示すように渡来の信仰に基ずくもので
邪気を祓う意味があるといわれています。
神社にあるのが一般的ですが、東大寺南門のものが石製としては我国最古のものとされています。
神社によっては狛犬ではなく、狐や牛などの場合もあります。狐は稲荷神社、牛は天満宮に見られ、共にお祀りされている神様の「しんし神使」であるとされています。

狛犬の表情は神社、あるいは地域によって実に多様です。(神社本庁教学研究所より)


お稲荷様の狐が口にくわえているものは?

稲荷神社の狐像にはさまざまな形態が見られます。これは稲荷神が氏神の神社や祠に祀られていたり、各家の屋敷神として邸内社に祀られるなど、その信仰に多様性があるためといえます。稲荷信仰は稲荷神社の御祭神であるうかの宇迦之みたまのかみ御魂神が五穀や食物を司る神であるように農耕神・穀物神としての御神格が中心となっています。
このため狐像が口にくわえているものも、穀霊を象徴する玉であったり、稲束を刈る鎌であったりとさまざまです。また、穀物を納める米蔵の鍵をくわえている狐像もあり、この像からは穀霊神であるのと同様に自家の米蔵、つまり家財を守る神、家内安全、家業繁栄の神としての信仰もうかが窺う事が出ます。
このほか、お経の巻物や火焔の燃え上がる如意宝珠などの仏法具くわえたものも見られます。
神社の参道に一対で置かれた狐像の中には狛犬と同様に社殿向って右(上座)が口を開いた「阿(あ)」であり、左(下座)が口を閉じた「吽(うん)」で、「阿吽」の対になっている場合もあります。(神社本庁教学研究所より)

祭りと人生

祭りは繰り返しである。神社の祭りでも、家々の祭りでも、日々繰り返され、年々繰り返され、又何年に一度ずつ繰り返しされる。それに依って祭式も整備され、確立されて来た。その祭式に依ってその神社の存する限り祭りは永遠に繰り返されてゆくのである。
そもそも人生というものは繰り返しの輪廻転生の世界であり、日々・年々に回帰が繰り返されてゆく、その中で大自然の力に依って生かされている事が必然的に分って来るのである。法則的に繰り返す。人々は結婚し、子供を産み、子は又子供を産んで命を受け継ぐ事、これを伝承として孫生(ひこばえ)に伝えてゆく。親等の持っている素晴しいものを受け継ぐ事もやはり繰り返しであろう。同じ事の繰り返しに依って家々の伝承と個承・孫生と個性あるものが継承し人生をもって歴史は伝わってくるものである。
新しい命は個性を持って色々と可能なものを含み、そして産まれてくる。それを育てていくにはそれぞれの伝わって来た方向性を見出し、自覚に基き大自然(神)に真心(まごころ)を通し祈って行く事を伝承し、子孫達はそれを実行する重大な役目を荷負っているのではないだろうか。
人生とは正(まさ)に生き甲斐を持って己の生き様を推進させ自覚を持つものにほかならない。多様な祈りを実践して自らなる命の存在とその命の倫理的役割を自覚し、その人生の生き方と正しい方向性を見極める事である。
祭りは神威を仰ぎ神徳(みいず)を称(たた)え、その原点を見失わない事、絶えず神聖な清浄な心をもって立ち返る事により道をはずさぬ様にするのが本来の祭りの根源であろう。

祭祀と思想より 抜粋

神道でいう「罪穢」について

「罪」については、「延喜式」巻八に納められている大祓詞に「天津罪・国津罪」として、二十以上に及ぶ罪が述べられています。
天津罪は一般に出ている大祓詞には削ってありますが、延喜式の原本には、天津罪を挙げて、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸の罪をいうのだとあります。スサノオノミコトが高天原で犯した罪だとされています。畔放(あはなち)とは、田圃の畔(あぜ)を取りこわすのですから、稲田の水は外へ流れ出てしまって、耕作を困らせる事になります。溝埋これは、畔と畔との間の溝を埋めるのですから、田圃に水が入らなくなるので耕作を困らせます。樋放(ひはなち)は、桶を掛けて、山の谷から田に水を引いて来るのを取り放つのですから、耕作を不能ならしめます。以上は何れも稲田と水との関係について妨害する事で、いわゆる耕作妨害罪です。次に頻蒔(しきまき)とは、一度稲種を蒔いた他人の田圃の上に、再び種を蒔く事を言い、串刺とは、他人の田圃の境界に、境界を示す竹を立てることで、共に他人の耕作田を横領する事でありまして、田圃横領罪を言うのです。
これらがなぜ天津罪になるかといえば、稲は人の生きて行く命の根源なのです。コメとは小芽、イネは生根、ヨネは世根だといえます。米により生かされて行く生命の根を絶つ。生きて行く根、即ちこの生命は神から頂いたものです。稲は青人草(人間の事)の食いて行くべきものなりとして、祖神(親神)より頂いたものなのです。それが採れなくなることは、生命の根を絶つ所から、天津罪になるのです。
また生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)とは、これまたスサノオノミコトが天の斑駒(むらごま)の膚をさいて天の機織(はたおり)屋の棟をうかがって投げ入れた。その結果、織姫を殺すことになったとあるように、動物を殺し、また人を殺す罪をいいます。屎戸(くそへ)は、天照大御神は新嘗きこしめされる御祭の御殿に、スサノオノミコトが屎をまきちらした罪で、神聖な所を汚す罪だといえます。天津罪は以上述べて来たように、今の言葉で申しますと、耕作妨害罪・稲田横領罪・神聖な所汚す罪、或いは殺人罪だということになります。信仰上から見ますと、人間の命も生命の根源である食物も、元を正せば何れも祖神から賜ったものです。人間だからといって、これを勝手に殺し、奪い、汚すことは出来ない。その殺生与奪はただ祖神の意思で、その命ずるままに従う以外にありません。生死の根本は天つ祖神から与えられたものですから、これを犯す罪が天津罪と呼ばれるわけです。
国津罪とは、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆虫(はうむし)の災・高津神の災・高津鳥の災・畜仆(けものたう)し・蠱物為(まじおのせ)る罪が、これであるとあります。生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)は人間の生きている皮膚及び死者の皮膚を断つこと。白人は、血族結婚等で白子が産まれること。胡久美(こくみ)は、コブ等の出来ること。己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪等は、何れも家族生活をする上から見て、人間として犯してはいけない罪をいいます。畜犯せる罪は、人間が畜を犯すというような畜生のような行為をすること。昆虫の災は蛇や百足など地上を這う動物によって害を受ける事。高津神の災は雷などによって、人畜に与える被害。高津鳥の災は鷹や鷲等に人畜をさらわれるような被害。畜仆しは、ケモノを呪い殺す事。蠱物為る罪とは、おまじないをして、正しいものを混乱させる罪をいいます。以上はこの地上人間界の不倫の姿、血を見るような姿、混乱の姿、人間としてしてはならない事をする罪で、これを国津罪というのであります。これらは、律令が制定されるまで、具体的な罪名とされてきた事であり、この「罪」に対する代償として贖い物を差し出すという「祓い」が義務つけられていました。
「穢」とは「浄明正直」の言葉であらわせる事とは異なるものが自らの身につく状態を指します。これは自らの行為による「罪」と異なり、死・病などの日常とは異なる諸事によって、受動的に起こる現象と考えられてきました。
一般的には「穢」の中に「罪」が含まれるという考え方がある為、祓詞(はらえことば)のように「罪穢」として同一に用いられることも多いようです。
神道には、キリスト教のように人が生まれながらに負っている「原罪」という考え方はありません。誰もが日常的な生活の中で犯してしまう恐れのある「罪穢」に対して、常に慎みの心を持ち、身体を清浄な状態に保つ為に「禊祓」をおこなうことが、その基本的な考え方といえます。

『神道のいろは』より

新嘗祭について

 毎年十一月二十三日には、天天皇陛下がその年の新穀を神々に御親供なされる新嘗祭が、宮中・新嘉殿(しんかでん)においておこなわれています。
 古くは干支によっていたため、日が定まっておらず十一月の下も卯の日、三卯まであれば中の卯の日を選んで祭りが行われました。これが明治六年の新暦採用から、毎年十一月二十三日となり、同年の太政官布告(だじょうかんふこく)で紀元節や天長節と共に定められました。
 戦後、この日は「勤労感謝の日」と改称され、勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日として国民の祝日となしましたが、単なる勤労や生産に対する感謝の日と意味が違う事は、その起源から明らかなことです。新嘗祭の起源については「日本書紀」神代巻で天照大御神が「吾が高天原にきこしめす・斎庭の稲穂(ゆにわのいなほ)を以って、また吾が児(みこ)にまかせまつるべし」と仰せになり、皇孫孫命(すめもまのみこと)の降臨に際して斎庭の稲穂をお授けになったことに遡(さかのぼ)ることができます。
 高天原で育てられていた穀物の種が、皇孫孫命により初めて葦原中津国(あしはらなかつくに)でも栽培され、これが我国における農業の事始めとなりました。
 この御神恩に対する感謝の祭りとして、天皇陛下(皇孫孫命)御自ら、五穀豊穣を神々に報告されるのが新嘗祭であり、これに倣(なら)って全国の神社においても新嘗祭が執り行われているのです。

神道いろは・神社とまつりの基礎知識より

私見として

 戦後「新嘗祭」を「勤労感謝の日」と改称されて「祝日」となりましたが「新嘗祭」として祭礼を仕え奉らせて頂いて思う事は、五十代・六十代・七十代の方々が「新嘗祭」とはなんですか? と尋ねられ本当に悲しい思いを致しました。やはりテレビ等、メディアによって「勤労感謝の日」は戦前までは「新嘗祭」と呼ばれ全国各地で五穀豊穣を神様に報告しお祝いをしたいものです。この事を大いに取上げてほしいものです。
 特に二月十七日に祈年祭(としごいのまつり)の折に、五穀豊穣はもとより私達は、「新嘗祭」当日までに諸祈願をさせて頂きました事が成就出来たかどうかの結果を見いだし、「師走の大祓祭」に成就させて頂いた事には感謝し、不成就には反省をさがして新年を迎えたいものです。

玉串の捧げかた

 神社で正式参拝、御祈祷をお願いした際には、一般的に玉串を捧げて神様を礼拝する作法を行います。
 玉串とは、榊などの小枝を用い、これに紙垂(しで)は、清らかなものを表わすために付けられました。

 玉串の捧げ方は、1. 神職から手渡された玉串を、2. 右手で根元を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸の高さに捧げ持ちます。御神前に置かれた案(祭事に用いる机)の前に進み出て、一礼をし、3. 玉串を立て左手を下げて右手に揃え、玉串に祈念をこめたあと、4. 右手で玉串の中央を下から支え、根元を時計回りに御神前に向け、5. 案の上にお供えします。その後、二回頭を下げ、二回拍手、もう一度頭を下げる、いわゆる「二拝二拍手一拝」作法で拝礼します。

玉串の意味について

 玉串は神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等の神饌と同様の意味があると考えられます。しかし神饌と異なる点は、玉串拝礼という形で自らの気持ちを込めて供え、お参りするということです。勿論、神饌も注意して選び、心を込めてお供えしますが、玉串は祭典の中で捧げて拝礼する事から、格別な意味を有するものであることが分ります。
 「神社祭式同行事作法解説」(神社本庁編)では玉串を捧げる事を「玉串は神に敬意を表わし、且つ神威を受けるために祈念を込めて捧げるものである」と説明しています。
 玉串の由来は、神籬(ひもろぎ)とも関連しまして「古事記」の天岩戸隠れの神話に求められるものといわれています。即ち天照大神の岩戸隠れの際に、神々がおこなった祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだことが記されています。その語源には幾つかの説があり、本居宣長はその名称の由来を神前に手向けるために「手向串」とし、供物的な意味を有するものと解しています。平田篤胤は、本来は木竹(串)に玉を付けたものであったために「玉串」と称したと述べています。このほか六人部是香(むとべよしか)は真榊が神霊の宿ります料として、「霊串(たまぐし)」の意があるなどとしています。こうしたことから玉串は神籬と同様に神霊(みたま)迎える・依代であり、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祀られる神と祀る人との霊性を合せる仲立ちとしての役割を果たす供物であるということが出来るのではないでしょうか。

「神道のいろは」より

私見として

 「玉串の捧げ方」「同意味について」は神社祭典、或いは個人での祈願等によって参拝された方は多数おられるでしょう。玉串というのは神社祭礼において参拝者にとって欠かせられないものであります。祭礼に参加する事の証(あか)しと神様に己の「意(こころ)」に間違いなく心素直な気持ちを持ち「意」のこもった事を伝え願うものであります。神葬祭にも玉串奉奠(仏では焼香)を行います。この時は忍び手と申し、音を立てずに拝礼し祈ります。その時故人に対して敬虔な気持と共に生前において、長い間ご苦労様よく頑張って来ましたねという事を伝え玉串を捧げるのです。

大祓祭について

 大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持で日々の生活にいそしむよう、自(みずか)らの身心の穢れや、そのほか災厄の原因となる諸々の罪・過ちを清める事を目的とします。
 この行事は、記紀神話に見られるイザナギノミコトの禊祓(みそぎはらい)を起源とし、宮中においても、古くから大祓が行われて来ました。中世以降、格神社で年中行事の一つとして普及し、現在では多くの神社の恒例式となっています。
 年に二度おこなわれ、六月の大祓を夏越(なごし)の祓いと呼びます。大祓い詞を唱え、人形(ひとがた-人の形に切った紅白紙)などを用いて、身に着いた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈る為、萱や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と唱えます。また、十二月の大祓は年越の祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために身心を清める祓いです。

「神道のいろは」より

 現在の人は普通一年といって、一期に勘定していますが、昔の人は一年を二つの時期に分けて、考えておったのであります。こういう習慣も一年を二つに分ける考え方の上に立っていたと考えられます。そこで六月の晦日と十二月の晦日、即ち半年毎に、全ての人々に、それまで犯したと思う、これではいけないと思う事に反省の機会を与える。これが大祓いが年二回に分けて行われるわけであります。そしてその次の日からは、清められた自分であり、清められた家族であり、清められた会社であり、国であるという強い自覚と不安のない気持をもって、新しい人生を切り開いて行こうということが、元来の大祓の趣旨なのであります。
 ところが我々は、年二回だけ祓ってもらったら、毎日祓わなくてもいいのかという考えが浮かんできます。私は神社に参拝されます崇敬者には、神棚を奉られておられる方や、神棚のない方にも朝、家を出発される時に手を合せて今日一日を一生懸命勤めて参ります。方位の勝手をお詫び申して神様どうぞお守り下さいと、崇敬者等にはそういう気持で家を出て頂くようにと伝えさせて頂いております。ところが、勤めが終わり家に帰ってみた時に、おそらく、こんなことや、あんな事もあったと、考えてみれば、足りないだらけの自分であるということを知るであろうと思います。この事を思い浮かべて「反省と感謝」を探しながら生活して頂きたいと思います。こういう気持をもって生活していく時、家族とその日にあった事を話し合う時に絆が生まれてくるのではないかと思います。

「大祓詞の解釈」の中の私見