神道の知識について

鳥居について

私達が神社にお参りをする時、先ず鳥居を目にします。鳥居は神社を表示し、また神社の神聖さを象徴する建造物ともいえます。
鳥居は神社の内と外を分ける境に立てられ、鳥居の内は神様がお鎮まりになる御神域として尊ばれます。特に神殿(本殿)を持たず、山など自然物を御神体または依代(よりしろ)としてお祀りしている神社の中には、その前に鳥居が立てられ神様の御存在を表わすものとして重視されています。
鳥居の起源については、天照大神が天の岩戸にお隠れになった際、八百万の神々が鶏を鳴かせましたが、この時鶏が止まった木を鳥居の起源である説や外国からの渡来説などがあります。それそれの神社により形態が異なります。代表的なものは、鳥居上部の横柱が一直線になっている神明(しんめい)鳥居とこの横柱の両端が上向きに反っている明神鳥居があります。このほか形態では明神鳥居の横柱上部に合掌形の破風のついた山王鳥居やまた朱塗りの稲荷鳥居などの特徴的なものがあります。起源や形態など様々であるが、鳥居を見ると神聖さを感じるのは日本人の共通した考え方ではないでしょうか。
ちなみに思金神社の鳥居は神明鳥居でございます。

神社新報社より

神道の起源はとても古く日本の風土や日本人の生活習慣に基き生じた神観念です。このためキリスト教のキリストのような開祖はいませんし、「聖書」のような経典もありません。「古事記」「日本書紀」などにより、神道の在り方や神々の事を窺(うかが)うことができます。
日本人の生活と深い関わりのある神道は当初から宗教や宗派として認識されていたわけではなく仏教が大陸から伝来したのち、それまで我が国独自の慣習や信仰が御先祖(みおやかみ)の御心に従う「かむながらの道」(神道)として意識されるようになりました。神社の創立の由来はとても古くそれぞれの土地や氏族の神話的な淵源に根ざしたものです。
神道の特色の一つとして外来の他宗教に対する寛容さを挙げることが出来ます。神道は仏教や儒教、道教などをも習合し、中世から近世にかけて様々な思想的な展開が見られ、我が国の文化に大きな影響を及ぼしました。しかし、我が国独自の神観念は変らず現在まで脈々と受け継がれています。また神道の特色の一つとして神々を敬い、祖先を大切にする(敬神崇祖)と言った考え方があります。(神社本庁教学研究所より)


参道の狛犬について

神社にお参りすると参道の両脇に一対で置かれた石製の狛犬を見かけます。狛犬は神社にとって一般的なものとなっています。
普段、私たちは石製のものを多く目にしますが、この他に、社殿内に置かれる木製や陶製のもの、また金属製のものなどがあります。狛犬は高麗犬の意味で、獅子と共に一対なって置かれているとする説もあり、その起源も名称が示すように渡来の信仰に基ずくもので
邪気を祓う意味があるといわれています。
神社にあるのが一般的ですが、東大寺南門のものが石製としては我国最古のものとされています。
神社によっては狛犬ではなく、狐や牛などの場合もあります。狐は稲荷神社、牛は天満宮に見られ、共にお祀りされている神様の「しんし神使」であるとされています。

狛犬の表情は神社、あるいは地域によって実に多様です。(神社本庁教学研究所より)


お稲荷様の狐が口にくわえているものは?

稲荷神社の狐像にはさまざまな形態が見られます。これは稲荷神が氏神の神社や祠に祀られていたり、各家の屋敷神として邸内社に祀られるなど、その信仰に多様性があるためといえます。稲荷信仰は稲荷神社の御祭神であるうかの宇迦之みたまのかみ御魂神が五穀や食物を司る神であるように農耕神・穀物神としての御神格が中心となっています。
このため狐像が口にくわえているものも、穀霊を象徴する玉であったり、稲束を刈る鎌であったりとさまざまです。また、穀物を納める米蔵の鍵をくわえている狐像もあり、この像からは穀霊神であるのと同様に自家の米蔵、つまり家財を守る神、家内安全、家業繁栄の神としての信仰もうかが窺う事が出ます。
このほか、お経の巻物や火焔の燃え上がる如意宝珠などの仏法具くわえたものも見られます。
神社の参道に一対で置かれた狐像の中には狛犬と同様に社殿向って右(上座)が口を開いた「阿(あ)」であり、左(下座)が口を閉じた「吽(うん)」で、「阿吽」の対になっている場合もあります。(神社本庁教学研究所より)

祭りと人生

祭りは繰り返しである。神社の祭りでも、家々の祭りでも、日々繰り返され、年々繰り返され、又何年に一度ずつ繰り返しされる。それに依って祭式も整備され、確立されて来た。その祭式に依ってその神社の存する限り祭りは永遠に繰り返されてゆくのである。
そもそも人生というものは繰り返しの輪廻転生の世界であり、日々・年々に回帰が繰り返されてゆく、その中で大自然の力に依って生かされている事が必然的に分って来るのである。法則的に繰り返す。人々は結婚し、子供を産み、子は又子供を産んで命を受け継ぐ事、これを伝承として孫生(ひこばえ)に伝えてゆく。親等の持っている素晴しいものを受け継ぐ事もやはり繰り返しであろう。同じ事の繰り返しに依って家々の伝承と個承・孫生と個性あるものが継承し人生をもって歴史は伝わってくるものである。
新しい命は個性を持って色々と可能なものを含み、そして産まれてくる。それを育てていくにはそれぞれの伝わって来た方向性を見出し、自覚に基き大自然(神)に真心(まごころ)を通し祈って行く事を伝承し、子孫達はそれを実行する重大な役目を荷負っているのではないだろうか。
人生とは正(まさ)に生き甲斐を持って己の生き様を推進させ自覚を持つものにほかならない。多様な祈りを実践して自らなる命の存在とその命の倫理的役割を自覚し、その人生の生き方と正しい方向性を見極める事である。
祭りは神威を仰ぎ神徳(みいず)を称(たた)え、その原点を見失わない事、絶えず神聖な清浄な心をもって立ち返る事により道をはずさぬ様にするのが本来の祭りの根源であろう。

祭祀と思想より 抜粋

神道でいう「罪穢」について

「罪」については、「延喜式」巻八に納められている大祓詞に「天津罪・国津罪」として、二十以上に及ぶ罪が述べられています。
天津罪は一般に出ている大祓詞には削ってありますが、延喜式の原本には、天津罪を挙げて、畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸の罪をいうのだとあります。スサノオノミコトが高天原で犯した罪だとされています。畔放(あはなち)とは、田圃の畔(あぜ)を取りこわすのですから、稲田の水は外へ流れ出てしまって、耕作を困らせる事になります。溝埋これは、畔と畔との間の溝を埋めるのですから、田圃に水が入らなくなるので耕作を困らせます。樋放(ひはなち)は、桶を掛けて、山の谷から田に水を引いて来るのを取り放つのですから、耕作を不能ならしめます。以上は何れも稲田と水との関係について妨害する事で、いわゆる耕作妨害罪です。次に頻蒔(しきまき)とは、一度稲種を蒔いた他人の田圃の上に、再び種を蒔く事を言い、串刺とは、他人の田圃の境界に、境界を示す竹を立てることで、共に他人の耕作田を横領する事でありまして、田圃横領罪を言うのです。
これらがなぜ天津罪になるかといえば、稲は人の生きて行く命の根源なのです。コメとは小芽、イネは生根、ヨネは世根だといえます。米により生かされて行く生命の根を絶つ。生きて行く根、即ちこの生命は神から頂いたものです。稲は青人草(人間の事)の食いて行くべきものなりとして、祖神(親神)より頂いたものなのです。それが採れなくなることは、生命の根を絶つ所から、天津罪になるのです。
また生剥(いきはぎ)、逆剥(さかはぎ)とは、これまたスサノオノミコトが天の斑駒(むらごま)の膚をさいて天の機織(はたおり)屋の棟をうかがって投げ入れた。その結果、織姫を殺すことになったとあるように、動物を殺し、また人を殺す罪をいいます。屎戸(くそへ)は、天照大御神は新嘗きこしめされる御祭の御殿に、スサノオノミコトが屎をまきちらした罪で、神聖な所を汚す罪だといえます。天津罪は以上述べて来たように、今の言葉で申しますと、耕作妨害罪・稲田横領罪・神聖な所汚す罪、或いは殺人罪だということになります。信仰上から見ますと、人間の命も生命の根源である食物も、元を正せば何れも祖神から賜ったものです。人間だからといって、これを勝手に殺し、奪い、汚すことは出来ない。その殺生与奪はただ祖神の意思で、その命ずるままに従う以外にありません。生死の根本は天つ祖神から与えられたものですから、これを犯す罪が天津罪と呼ばれるわけです。
国津罪とは、生膚断・死膚断・白人・胡久美・己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪・畜(けもの)犯せる罪・昆虫(はうむし)の災・高津神の災・高津鳥の災・畜仆(けものたう)し・蠱物為(まじおのせ)る罪が、これであるとあります。生膚断(いきはだたち)・死膚断(しにはだたち)は人間の生きている皮膚及び死者の皮膚を断つこと。白人は、血族結婚等で白子が産まれること。胡久美(こくみ)は、コブ等の出来ること。己が母犯せる罪・己が子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪等は、何れも家族生活をする上から見て、人間として犯してはいけない罪をいいます。畜犯せる罪は、人間が畜を犯すというような畜生のような行為をすること。昆虫の災は蛇や百足など地上を這う動物によって害を受ける事。高津神の災は雷などによって、人畜に与える被害。高津鳥の災は鷹や鷲等に人畜をさらわれるような被害。畜仆しは、ケモノを呪い殺す事。蠱物為る罪とは、おまじないをして、正しいものを混乱させる罪をいいます。以上はこの地上人間界の不倫の姿、血を見るような姿、混乱の姿、人間としてしてはならない事をする罪で、これを国津罪というのであります。これらは、律令が制定されるまで、具体的な罪名とされてきた事であり、この「罪」に対する代償として贖い物を差し出すという「祓い」が義務つけられていました。
「穢」とは「浄明正直」の言葉であらわせる事とは異なるものが自らの身につく状態を指します。これは自らの行為による「罪」と異なり、死・病などの日常とは異なる諸事によって、受動的に起こる現象と考えられてきました。
一般的には「穢」の中に「罪」が含まれるという考え方がある為、祓詞(はらえことば)のように「罪穢」として同一に用いられることも多いようです。
神道には、キリスト教のように人が生まれながらに負っている「原罪」という考え方はありません。誰もが日常的な生活の中で犯してしまう恐れのある「罪穢」に対して、常に慎みの心を持ち、身体を清浄な状態に保つ為に「禊祓」をおこなうことが、その基本的な考え方といえます。

『神道のいろは』より

新嘗祭について

 毎年十一月二十三日には、天天皇陛下がその年の新穀を神々に御親供なされる新嘗祭が、宮中・新嘉殿(しんかでん)においておこなわれています。
 古くは干支によっていたため、日が定まっておらず十一月の下も卯の日、三卯まであれば中の卯の日を選んで祭りが行われました。これが明治六年の新暦採用から、毎年十一月二十三日となり、同年の太政官布告(だじょうかんふこく)で紀元節や天長節と共に定められました。
 戦後、この日は「勤労感謝の日」と改称され、勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日として国民の祝日となしましたが、単なる勤労や生産に対する感謝の日と意味が違う事は、その起源から明らかなことです。新嘗祭の起源については「日本書紀」神代巻で天照大御神が「吾が高天原にきこしめす・斎庭の稲穂(ゆにわのいなほ)を以って、また吾が児(みこ)にまかせまつるべし」と仰せになり、皇孫孫命(すめもまのみこと)の降臨に際して斎庭の稲穂をお授けになったことに遡(さかのぼ)ることができます。
 高天原で育てられていた穀物の種が、皇孫孫命により初めて葦原中津国(あしはらなかつくに)でも栽培され、これが我国における農業の事始めとなりました。
 この御神恩に対する感謝の祭りとして、天皇陛下(皇孫孫命)御自ら、五穀豊穣を神々に報告されるのが新嘗祭であり、これに倣(なら)って全国の神社においても新嘗祭が執り行われているのです。

神道いろは・神社とまつりの基礎知識より

私見として

 戦後「新嘗祭」を「勤労感謝の日」と改称されて「祝日」となりましたが「新嘗祭」として祭礼を仕え奉らせて頂いて思う事は、五十代・六十代・七十代の方々が「新嘗祭」とはなんですか? と尋ねられ本当に悲しい思いを致しました。やはりテレビ等、メディアによって「勤労感謝の日」は戦前までは「新嘗祭」と呼ばれ全国各地で五穀豊穣を神様に報告しお祝いをしたいものです。この事を大いに取上げてほしいものです。
 特に二月十七日に祈年祭(としごいのまつり)の折に、五穀豊穣はもとより私達は、「新嘗祭」当日までに諸祈願をさせて頂きました事が成就出来たかどうかの結果を見いだし、「師走の大祓祭」に成就させて頂いた事には感謝し、不成就には反省をさがして新年を迎えたいものです。

玉串の捧げかた

 神社で正式参拝、御祈祷をお願いした際には、一般的に玉串を捧げて神様を礼拝する作法を行います。
 玉串とは、榊などの小枝を用い、これに紙垂(しで)は、清らかなものを表わすために付けられました。

 玉串の捧げ方は、1. 神職から手渡された玉串を、2. 右手で根元を上から持ち、左手で榊の中程を下から支え、胸の高さに捧げ持ちます。御神前に置かれた案(祭事に用いる机)の前に進み出て、一礼をし、3. 玉串を立て左手を下げて右手に揃え、玉串に祈念をこめたあと、4. 右手で玉串の中央を下から支え、根元を時計回りに御神前に向け、5. 案の上にお供えします。その後、二回頭を下げ、二回拍手、もう一度頭を下げる、いわゆる「二拝二拍手一拝」作法で拝礼します。

玉串の意味について

 玉串は神前にお供えするものとして、米・酒・魚・野菜・果物・塩・水等の神饌と同様の意味があると考えられます。しかし神饌と異なる点は、玉串拝礼という形で自らの気持ちを込めて供え、お参りするということです。勿論、神饌も注意して選び、心を込めてお供えしますが、玉串は祭典の中で捧げて拝礼する事から、格別な意味を有するものであることが分ります。
 「神社祭式同行事作法解説」(神社本庁編)では玉串を捧げる事を「玉串は神に敬意を表わし、且つ神威を受けるために祈念を込めて捧げるものである」と説明しています。
 玉串の由来は、神籬(ひもろぎ)とも関連しまして「古事記」の天岩戸隠れの神話に求められるものといわれています。即ち天照大神の岩戸隠れの際に、神々がおこなった祀りでは真榊に玉や鏡などをかけて、天照大御神の出御を仰いだことが記されています。その語源には幾つかの説があり、本居宣長はその名称の由来を神前に手向けるために「手向串」とし、供物的な意味を有するものと解しています。平田篤胤は、本来は木竹(串)に玉を付けたものであったために「玉串」と称したと述べています。このほか六人部是香(むとべよしか)は真榊が神霊の宿ります料として、「霊串(たまぐし)」の意があるなどとしています。こうしたことから玉串は神籬と同様に神霊(みたま)迎える・依代であり、また玉串を捧げて祈る人の気持ちがこめられることにより、祀られる神と祀る人との霊性を合せる仲立ちとしての役割を果たす供物であるということが出来るのではないでしょうか。

「神道のいろは」より

私見として

 「玉串の捧げ方」「同意味について」は神社祭典、或いは個人での祈願等によって参拝された方は多数おられるでしょう。玉串というのは神社祭礼において参拝者にとって欠かせられないものであります。祭礼に参加する事の証(あか)しと神様に己の「意(こころ)」に間違いなく心素直な気持ちを持ち「意」のこもった事を伝え願うものであります。神葬祭にも玉串奉奠(仏では焼香)を行います。この時は忍び手と申し、音を立てずに拝礼し祈ります。その時故人に対して敬虔な気持と共に生前において、長い間ご苦労様よく頑張って来ましたねという事を伝え玉串を捧げるのです。

大祓祭について

 大祓は、我々日本人の伝統的な考え方に基づくもので、常に清らかな気持で日々の生活にいそしむよう、自(みずか)らの身心の穢れや、そのほか災厄の原因となる諸々の罪・過ちを清める事を目的とします。
 この行事は、記紀神話に見られるイザナギノミコトの禊祓(みそぎはらい)を起源とし、宮中においても、古くから大祓が行われて来ました。中世以降、格神社で年中行事の一つとして普及し、現在では多くの神社の恒例式となっています。
 年に二度おこなわれ、六月の大祓を夏越(なごし)の祓いと呼びます。大祓い詞を唱え、人形(ひとがた-人の形に切った紅白紙)などを用いて、身に着いた半年間の穢れを祓い、無病息災を祈る為、萱や藁を束ねた茅の輪(ちのわ)を神前に立てて、これを三回くぐりながら「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と唱えます。また、十二月の大祓は年越の祓とも呼ばれ、新たな年を迎えるために身心を清める祓いです。

「神道のいろは」より

 現在の人は普通一年といって、一期に勘定していますが、昔の人は一年を二つの時期に分けて、考えておったのであります。こういう習慣も一年を二つに分ける考え方の上に立っていたと考えられます。そこで六月の晦日と十二月の晦日、即ち半年毎に、全ての人々に、それまで犯したと思う、これではいけないと思う事に反省の機会を与える。これが大祓いが年二回に分けて行われるわけであります。そしてその次の日からは、清められた自分であり、清められた家族であり、清められた会社であり、国であるという強い自覚と不安のない気持をもって、新しい人生を切り開いて行こうということが、元来の大祓の趣旨なのであります。
 ところが我々は、年二回だけ祓ってもらったら、毎日祓わなくてもいいのかという考えが浮かんできます。私は神社に参拝されます崇敬者には、神棚を奉られておられる方や、神棚のない方にも朝、家を出発される時に手を合せて今日一日を一生懸命勤めて参ります。方位の勝手をお詫び申して神様どうぞお守り下さいと、崇敬者等にはそういう気持で家を出て頂くようにと伝えさせて頂いております。ところが、勤めが終わり家に帰ってみた時に、おそらく、こんなことや、あんな事もあったと、考えてみれば、足りないだらけの自分であるということを知るであろうと思います。この事を思い浮かべて「反省と感謝」を探しながら生活して頂きたいと思います。こういう気持をもって生活していく時、家族とその日にあった事を話し合う時に絆が生まれてくるのではないかと思います。

「大祓詞の解釈」の中の私見

神様の御神徳について

 我々日本人は、神々の恩恵を受ける事により、生命を保つ為の一切のものを戴いているという考えをもち、共同体の守り神として神々を祀り、祈ることが神道の信仰であると考えてきました。
 しかし、その一方で、商売繁盛や学業成就、病気平癒や開運招福などを願う個人的な祈願も、歴史や民族学から見て、我が国の文化と深い関わりを有している事がわかります。御利益とは、日常生活の問題解決に、神々の恵みが人々に与えられることです。もともとは仏教でいう現世に受ける利益を示す「現世利益(げんせりやく)」に由来して用いられたもので民間信仰として位置付けられています。具体的には、穀霊神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)-稲荷神社の御祭神-が五穀豊穣の神であることから、商売繁盛の御利益に結び付いたことや、菅原道真公を祀る天神社や天満宮が、才子として名高い道真公にあやかることから、学業成就の御利益あることなどを見ることができます。このほか、それぞれの由緒や社名、特殊神事に基づいて、特別な御利益があったり、同じ御祭神でも違う御利益があるという事例もあります。
 いづれにしても、一般の人々が日々生ずる不安や苦しみから逃れたいと切実に祈る気持や、更なる生活の向上を願う思いが御利益の信仰として表れたもので個々の御利益が必ずしも各神社や神様の御神格や御神徳の全てを表わしたものではありません。

「神道のいろは」より

「厄病神」とはどのような神様ですか?

 厄病神とは病気など様々な災厄をもたらす悪神であり、疫神(えきじん)、厄神(やくしん)とも考えられています。
 疫神に対する信仰は古くからあり、「神祇令(じんぎりょう)」年中祭祀として鎮花祭(ちんかさい)が規定されています。これは春花は飛散する旧暦三月に、花と共に疫神が飛散るのを防ぐため、大和の大神(おおみわ)神社と摂社・狭井(さい)神社で行われた祭りであり、現在では毎年四月十八日に執り行われています。
 毎年六月・十二月の二度、都へ疫神が入らぬように都の四隅で行われた道饗祭(みちあえのまつり)も、こうした信仰によるお祭りです。具体的には道祖神と称されている八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・久那斗(くなど)の三神に対する祭りですが「延喜式」巻八(祝詞)、供物に獣皮が用いられる事などから、疫神(疫鬼)が都の中に入らぬように路上で迎えて饗応し、退散させる意味があるともいわれています。
 このように災厄をもたらす疫神を祀るということは、我が国独自の考え方に基づくものです。例えば宮中で行われていた追儺(ついな・節分行事)の祭りには、大陸から伝わった当初に無かった疫鬼への饗応が見られます。また祟りをもたらす霊魂(人霊)を神霊として鎮め祀るということは御霊(ごりょう)信仰にも見られ、丁重にお祀りすることにより災厄を防ぐ霊威ある神へと変るのです。一年の災厄を祓うため、正月に厄神詣として厄神を参詣する風習があったのは、まさにこうした信仰によることです。
 現在でも、疫神送りと称される行事が地域によって行われるなど、日常生活の平穏を祈る人々の気持は今も昔も変りありません。

「神道のいろは」より


参拝の際に鳴らす鈴の意味について

 多くの神社には、拝殿の中央、ちょうど賽銭箱の真上あたりに、銅や真鍮(しんちゅう)製の大きな鈴が吊られており、この鈴に添えて麻縄や、紅白・五色の布などを垂らして、参拝者はこれを振り動かして鈴を鳴らし、お参りをします。
 社頭に設けられた鈴は、その清々しい音色で参拝者を敬虔な気持にするとともに参拝者を祓い清め、神霊の発動を願うものと考えられています。また、巫女が神楽舞を舞う際に用いる神楽鈴も、社頭の鈴と同様の意味によるものです。古くは巫女が神楽を舞う事により神憑りして人々に神の意思を伝えており、このために必要なものとされていました。
 今日では巫女による神楽舞が優雅な形に定められ、神憑りというより、神慮を慰めるものとしての意味合いが強くなり、神楽舞の後に参拝者に対して行われる鈴振り行事は、祓い清めの意味を有するものということができます。このほか、御守などの授与品に鈴が用いられるのは、魔除けや厄除け開運のためともいわれています。
 「古語拾遺」には、天の岩戸にお隠れになられた天照大御神の心をひくために、天細女命(あめのうずめのみこと)が鈴を付けた矛を持って舞ったことが記され、宮中では天皇陛下が天照大御神を御親拝なされる際に、女性で祭祀を司る内掌典(ないしょうてん)が、御鈴を鳴らして奉仕することがあるように、神事における鈴振りは今日まで重要な意味を持ってきました。

「何々神宮」「何々神社」の名称について

 「神宮」「神社」の名称は、神社名に付される称号で社号といいます。
現在、単に「神宮」といえば、伊勢の神宮を示す正式名称として用いられています。また「何々神宮」の付されている神社に皇祖をお祀りしている霧島神宮や鹿児島新宮、また天皇をお祀りしている平安神宮や明治神宮などがあります。このほか、石上(いそのかみ)神宮や鹿島神宮・香取神宮などの特定の神社に限られています。
 これに対して「神社」は、その略称である「社」とともに一般の神社に対する社号として広く用いられています。また、「宮」や「大社」などの社号もあり、「宮」は天皇や皇族をお祀りしている神社や由緒により古くから呼称として用いられている神社に使われます。「大社」はもともと、天孫に国譲りをおこない、多大な功績をあげた大国主命を祀る出雲大社を示す社号として用いられてきました。しかし現在「大社」は広く崇敬を集める神社でも使われています。
 このほか、社号と異なりますが、古くから神様の名前に「大神」や「大明神」、また神仏習合の影響による「権現」といった称号を付して、社号に類するものとして一般的に用いられ信仰されている社もあります。このように神社により社号は異なりますが、それぞれの神社に対する人々の篤い信仰は些かの変わりもありません。

「神道のいろは」より

大祓祭とは

大祓と云うのは一年の中で六月・十二月の二度に分けて千三百年前の天武天皇時代より行われてきた事が古書に記されています。
さらに調べてみますと、八百万の神と共に天児屋根の命・太玉命の御議(みはかり)坐て定坐(さだめまし)つる儀には違いはないけれどその後皇御孫命(すめみまのみこと)の天降(あまもり)の時も、其御供の神等の大祓、また天降の後も、必(かならず)国の大祓など行わせた、それは歴史(ふみ)に遺されて居る事確かな事であります。神武天皇の天下を平定した後彼天児屋根命の孫天種子命、天太玉命の孫天富命等のもはら(主として)事を掌りまして、天上(あめ)の儀に順考(よりかんがえ)て、種子命の祝詞編修(つづり)給う天津神・国津神と共に四柱の姫神等を招きて、其御前に置座を設(ま)けて贖物(あがなうもの)〔罪の償いとして出すもの〕を捧げ神饌(みけ)を供え奉り天津祝詞を彼六前の神等に申し奉りて臣連(おみむらじ)八十伴男の百官にも聴こしめし、国の大祓を行わせた。神功皇后(おきながたらしひめのみこと)は筑紫にて、国の大祓を行わせた事は史に記(しる)されています。その後さして執り行われる事もなく、天武天皇御再興ありて、弥々世に行われる事となり、文武天皇の大宝年中、初めて六月・十二月両度の大祓と定められるなり。その後は世々に行われて、盛衰ありと雖(いえど)も連綿絶える事無く今日に至り、其の盛大(おおやけ)なる大祓の式を見るべし。
 その紀元(おこり)はイザナミの命が「火の神」を産みその事により命を亡くした為に黄泉の国に行かれ、イザナギの命がイザナミの命を黄泉の国に迎えに行かれて汚穢れを身や身衣(みい)に付いたと思はれる罪穢れを祓い清める為に筑紫の日向の橘の小戸の檍原において禊祓いをされた。禊祓とは、イザナギの命が海潮(みしお)に下り潜(かずき)て〔水中に潜る〕又御身(みみ)を滌(そそ)がせ〔水などが飛び散る〕とある如く激しく清められたと古書に書かれて居ります。此れによってイザナギの命は全て清められ天照大神を始めて、数多の神等を産出(あれいで)ましとある如く祓事と賛成(たすけなし)〔あやまちのないようにと〕まず反省する事に始まるのであります。この事からイザナギの命の身も心も清々しくなり、此れ即ち身滌(みそぎ)祓の濫觴(らんしょう)〔物のはじまり〕又スサノオの命、高天原にて荒ぶる(神々に害を与える暴悪の神)御所行転(みしわざうたた)あり〔程度がはなはだしく・普通と違う〕天照大神の御怒りを坐して岩戸に幽居(こも)らせ世は常闇(とこやみ)となりスサノオの命が天津罪を犯し給いて八百万の神等により協議し反省を促(うなが)し罪穢れが如何に自分を損なうものかを自覚させる事、そして罪の償いとして祓えつものを〔罪を贖う為に出すもの〕科(おは)せ奉る。この様にして天児屋根の命に命を下してその祓の祝詞を宣り〔はっきりと表現する〕厳しい口調で祓詞おえて、高天原からスサノオの命を追放したと言われる重き罪であろうと思われます。
(天津神がスサノオの命の罪穢れを問いただした事の場面を古書を読んでいますと此れは裁判の始まりではないだろうかと思います。)
 この両件〔身滌祓いと岩戸事件〕を合せて祓い事の始まりであろう。この後天津神の命よりイザナギの命とは身滌祓の御行為(みしわざ)を遂げる事に依り御徳(みいつ)〔神の威光〕を益々大きく神功(みいさお)すでに終えて天津国なる日之少宮(ひのわかみや)に昇り鎮まり給う。
スサノオの命は解除(はらえ)〔罪の償いとして科(おは)したもの〕を受けて岩屋戸段に大御神の岩戸隠れの折りスサノオの命を荒び奉る荒御魂も和み〔追放された後、善神となり〕中津国においては大害〔八岐大蛇を切り裂いて天叢雲剣を得て天照大神に献上した〕(広辞苑)を除き世に優れたる御功績を立て父大神の任し給いし〔任命を下さる〕大命を果たしたと言われております。
抑々(そもそも)人の身に穢れあらば洗うべし罪悪(つみとが)あらば刑すべしし〔刑罰に処す〕と雖(いえど)も目に見えず行いに現れざる心の罪咎は、官の禁ずる処に非らず。〔公に在る者が罰する事ではない)水の清よい処には非らず。〔水が清い処には穢れが発生しない)然るに此の大祓は身に犯せる罪は勿論心裏(こころのうら)の邪念また不意(ゆくりなく)過ちの咎をも解き除いて諸々の災禍を免れしめ善良の心を起さしめて福(さいはい)招き齢(よわい)を延(のべ)しむる、神明の仁術なり〔此の大祓は身に付く罪は当たり前であるが、心の中の邪(よこしま)な考えや、知らず知らずに身に付いた穢れをも取り除いて守ってくれます。その事により善き心に目覚めさせて福を招き寿命を伸ばしてくれます。〔これ即ち神の心です。〕
 上代は〔一般に奈良時代またその前後〕別に教法と云いて人毎に説き諭す事もなく、況して刑法などあらむなり、唯人民の罪穢れある時はこの大祓を行いて、身心を祓清め給いしにて世治まり・国静かなりして実に貴重な神事にして寛仁の重典にぞある。
人間は反省すべき問題が多いようにおもはれます。神官が毎日神様の前に誠をもって奉祀しておりますが、本当に神様の御心を慰める事が出来るであろうかと、折角遠方から来られた参拝者の人々に満足を与えて、お返しする事が出来ているだろうかと言う反省を自問自答しながら、神様に今日一日反省と感謝探しつつ歩んで居る毎日です。
 さて、この祭りは知らず知らずの内、身に着いておる諸々の罪や穢れを祓う儀式であります。「人形(ひとがた)」と呼ばれる紙に息を吹きかけ或いは身体を撫でて自身の罪や穢れをその「人形」に移します。そこで半年ごとに多くの人々にそれまで犯したよ思う事、いけないと思う事に反省の機会を与えるものです。元来祓いと云われるのは穢れを取り去り清浄になる事であります。自己即ち御心〔神の心〕に近づき、人生の在り方を明らかにするのが祓いです。
 人間は「感謝」と「反省」に気持が無くなると「驕(おご)り」「我がまま」心に近づき、家庭生活も人間関係にも躓(つまづ)き自分がなぜという疑問が生じてくるものです。これは自己中心的な人間形成の中で生じるものです。その事によって過ちと思ったならば、目には見えない神様に素直にわび心に尽きるのではないだろうか?
各神社には大祓祭が千三百年前より執り行われてきた祭りです。
この折に奏上される大祓詞などは知らずに居られたのではないでしょうか?大祓詞を詳らかに書して行きたいとおもいます。

大祓詞の解釈

大祓詞は古来名文として知られて居る。その行文はまことに流麗でこれを誦すると知らず知らずのうちに罪穢れが祓い清められて行くような清々しさを感じます(祝詞古伝承の研究より)この祝詞は在るが中に尊く古くめでたき文にしあれば世の人みなの尊み重みして、もてあがめあうからに、、、、、、、、何れも何れも古のしわざをばしらず意詞(こころころば)をば知らず、ただ例の漢意(からごころ)になづみ惑える、己が心もて、みだりにときたる物なれば、一ツも古のまことにかなえるはなくなむ有りける。ここに吾師(わがまなびのおや)なりし縣居大人(あがたいのうし)は、いにしえも深く考えて、世の中の漢意のみだりごとを、よくわきまへ、古を学びをはじめいざない給える。それよりぞ、世の物まなび人、やや後の世人の漢意の、古に叶わざることば悟りはじめける。、、、、、、、、延喜式の八の巻なる、諸々の祝詞ごとを解かれたる(大祓詞後釈)要するに大祓詞は祖神(おやがみ)の心を心して実行するならば、祖神は必ずや、その人々の罪を許し、祓い清めてくれいう信仰で一貫している。その意味で人の一生は犯したと思う罪穢れは反省する事に始まり感謝に終わると言っても過言ではない。
この祓いとする原点としての道理は、大祓詞をのせた延喜祝詞式に、同じようにしてのせられておる遷却崇神(せんきゃくすうじん)〔たたる神を遷してやる〕祝詞のうちにも見出される祝詞によると祟(たた)るもの、穢れたものがあるときは、祓いといってもそれをただ追い祓へばそれでよいとしてはならぬ。「神和(やわ)し給うのでなけれはならぬ」ではどのようにして和めるかと言うと、神様に対して己の心を通して神に近づく敬虔な祈り心が有れば必ず神はその者に対して心豊かな気持をもって救いの手を差し延べて、罪穢れを祓い清めて頂けるとおもはれます。
「大祓詞の解釈と信仰」によりますと平安末期頃から文献では、今から約九百年前鳥羽天皇の頃三善為康編修した浅野群載に「中臣祭文」といはれる文章が載せられています。中臣祭文を見ますと大祓詞を中臣祭文と読んでおり、大祓詞が皆に申し聞かせる言葉になっている、それに対して神様に申上げる形に改めていまして、此れが今私共が祈祷の意味で毎日奉読しておる最も古い形のものです。
延喜式の大祓詞は、水無月と師走に読むことになっていますが、中臣祭文には時期の限定や場所、祓いを命ずる人も、受ける人も誰とは限ったものでありません。そして人々に読み聞かせると言う言葉から神様に申上げるという形に変わっています。
そしてこの大祓詞を朗々と奏上する時に、知らず知らず犯した罪穢れが思い出させられそれを神に対して、詫び心をもって日々過ごす事により己の人生が少しずつ変わってくる事を知るであろう。
さて大祓詞の注釈は学者によっては解釈の違いがあるようです。宣長公は、あるが中に尊く古きめでたき文にしあれば、注釈もいと多数有なるを、おのおの些かづつの異(かはり)はあれどもいづれもいづれも古のしわざ意詞(こころのことば)をばしらずただ例の漢意(近世の国学者が用いた語)に泥(なず)み惑える、己が心をもてみだりにときたる物なれば一ツも古の真(まこと)にかなへるはなくなむ有りける。ここに吾師(まなびのおやし)なりし縣居大人、古を深く考えへて世の中の漢意のみだりごとを善くわきまえ古の学びをはじめていざない給える。それよりぞ世の学び人、やや後の世の漢意の、古にかなわざることば悟り始めける。
縣居大人は、祓えは古事記にイザナギの命黄泉に到りまして、穢れ給へるを、清め給うとて筑紫の日向の橘の小門にして、大御身に着坐る物を悉くぬぎすて給うを言う。穢れたるを祓うよしなり。次に海潮(うしお)に浸して大御身を滌ぎ給う、此れを身滌という身の穢を洗い滌ぐよしなり。この二つが祓身滌のもとける。
宣長公は、古き祝詞どもいずれも文(あや)をなしてめでたく(すばらしい)麗しく(折り目正しい)つずりたり。大方人も神も同じく申す事も其の言葉の美麗(うるはしき)に感(めで)ては、受け給う御心こよなければ。、、、、、、
古の祝詞を読み申すとて、古の言あやまたずつとめて、その読みを正しくして仮にも後の音便に頽(くず)れたるなどまじえず、清み濁りなども厳かに守り努々(ゆめゆめ)なおざりに読むべきに有らず。
然るに此の大祓祝詞も諸々の祝詞も、今の本は訓を誤れることいといと(はなはだしく)多し。古言もしらざる後、世人のしわざなればなり。師(おや)の祝詞考の訓はすべて古言に依り、改められたればこよなく宜しきを直わろきことも多けれ此の大祓祝詞、今の此れからとある私の本どもは、後の人のさかしらにて改めつる所々もあり。訓のわろきはさらなり、そもそも大祓は公事にて、此の祝詞も公ざまなれば、私の祓いには叶わぬ事により世中に、或は言をはぶきもし加えもして読むなるも、一渡りは断わりあるに似たども、おお公と私と異なる以って、然改めるには猶も改むべきことは多かるべき、又総ても、公の祝詞を私の祓いに用いむは如何なればみながら作りかえずは有るべからず。(大祓詞というのは、公の祝詞であるので私事の作り変えてはならず。)


服忌期間中の神棚のお祀りについて

 忌の期間中は神社への参拝を遠慮しますが、家庭の神棚についても、これと同様のことがいえます。身内が亡くなると、まず喪主が神棚にその方がなくなった事を報告し、産霊(むすび)の神の力により現世(うつしよ)に生を得てから、御神恩を受けて生涯を過ごしたことに感謝するとともに、葬儀が無事に執行できるよう祈ります。
 報告の後、多くの場合には神棚の前面に半紙を貼り、一時的に神棚の祀りを止めます。半紙の代わりに屏風などを立てる地域もあります。この期間については地域より多少の差異がありますが、忌明けと考えられている五十日祭までが一般的です。
 このほか、存命中に社頭で病気平癒などの祈祷を受けた場合、親類以外の方が神社に参拝する(代参)か、若しくは遥拝によって、その祈願を解く事もある。
 身内の方が亡くなられた場合、新年に新しい御札をお祀りすることを遠慮される方もいますが、神棚は毎年新たなお神札に交換するのが本義ですので、忌の期間を過ぎればお神札を受けて、神棚にお祀りしても差し支えないと思います。もし、年末年始が忌の期間に重なるときは忌明の後にお神札を受けて下さい。

「神道のいろは」より

仏教と神道の葬祭の違いについて

 仏教と神道の葬祭の大きな違いとは、その霊魂観の相違からくるのではないでしょうか。
 仏教のおける理想とは、出家し、修行を積み重ね、自らの煩悩をすてて悟りの境地に達し、死後、人間的苦悩である六道(天界・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)への生まれ変わりから脱して、涅槃成仏(ねはんじょうぶつ)という状態に至ることを言います。
 悟りの境地に達し得ない人は、亡くなってから四十九日(中陰)を過ぎると六道のいずれかに生まれ変わり、迷いの生を続けねば成りません。
 このため、仏式葬祭では、仏法の加護で故人が成仏できるようご本尊に祈り、四十九日の法要等もこのことが中心に行われています。本来、それ以後の追善供養をおこなわないものも、成仏した後、故人の霊魂が現世と隔絶した存在になると考えられているからです。
 此れに対して、神道は、現世(うつしよ)を第一義に考えています。人が亡くなった後も霊魂は不滅であり、祀られて鎮まった みたま は、子孫を見守る祖霊となります。こうした考え方により、葬祭では故人の生前の功績を称え、遺徳を偲び、その後、祖霊祭(年祭お盆・お彼岸)では亡くなられた方の、 みたま を丁重にお祀りするのです。そこには、故人の霊魂と遺族との直接的な関係があります。現在、仏教の行事とされているお盆などの みたま祭 も本来は仏教と関係なく、日本固有の祖霊信仰にもとづくものなのです。

服忌(ぶっき)について

 親族が亡くなったとき、身内の者は喪に服しますが、これについて定めたものが、服忌制度で、「忌」とは故人の祀りに専念する事を、「服」とは喪に従い、死者への哀悼の気持ちを表す期間の事をいいます。
 戦前までは、江戸時代に武家の間で定められた服忌令が公的な制度として用いられていました。これによると父母の場合、忌の期間が五十日、服の期間十三ヶ月と最長で、親族の範囲により期間が短縮されています。戦後、これは廃止され、官公庁においては職員の服務規程の中で、配偶者は十日間、父母は七日間など忌引き期間を定めていますが、基本的に各地域の慣例に従っているのが現状です。
 神職の服忌心得として、忌の期間を父母・夫・妻・子は十日間、七歳未満の子・祖父母・孫・兄弟姉妹については五日間としており、服のきかんはその人の心得に任せ、夫々の神社の恒例がある場合にはこれに従うとしています。また、忌の期間は喪事のみに関わり、この期間が終了したときに神社でお祓いを受けます。
 氏子の服忌について、地域に慣例がある場合はいうまでのありませんが、一般的には五十日祭までが忌の期間で、一年祭(一周忌)までが服の期間と考えられているようです。このため、忌の期間である五十日を過ぎれば神事を再開しても差し支えないという例が多く聞かれます。
 忌の期間は神社への参拝を遠慮しますが、やむを得ない場合は、お祓いを受けて下さい。

「神道のいろは」より

神道のお墓(墓石の零号)について

 墓石に刻まれる「奥都城」「奥津城」「奥城」の文字は、(おくつき)と読み、墓を指す語として用いられます。「おく」とは、奥深いことの「奥」や海上の「沖」、また「置く」を意味するといわれます。また「津」「都」は、「つ」と読み、現在よく使われる「の」と同じ格助詞で、上代に用いられているものです。「城(き)」は柵・壁などで四辺を取り囲んだ一郭をいい「柩(ひつぎ)」という意味もあるとのことです。全体の意味としては、「奥深い所にあって外部から遮られた境城」ということ、また「柩を置く場所」、あるいは水葬がおこなわれていたとする慣習からの「柩を海の沖に放つ事」などの諸説が見られます。
 「奥都城」「奥津城」「奥城」の文字の違いについてですが、「奥城」は格助詞の「つ」を記さない形であり、「都」と「津」は表意文字では、単に「つ」という日本語の表音に当てはめた万葉仮名ですので、意味に於いて大きな違いはないと思われます。ただし葬儀には地域が重視されますので、その地域によって用いられる文字が定まっているようです。
 次に霊号(諡名・おくりな)に用いられる称号は、年齢・性別や出自・社会的功績などに応じてさまざまですが、現在では年齢・性別にみで選ばれる事が多いようです。
 乳幼児には「稚児」「若子」などが、児童には男子が「童子」、女子が「童女」青年では男子に「比古」(彦・ひこ)「郎子」(いらつこ)、女子には、「比売」(姫・ひめ)、「郎女」(いらつめ)、壮年の場合、男性が「大人」(うし)、女性が「刀自」(とじ)また老年では、男性が、「老叟」(ろうそう)、「翁」(お
きな)、女性が、「大刀自」(おおとじ)、「媼」(おおな)などがあります。

「神道のいろは」より


霊璽(れいじ)の覆いの蓋について

 神式の霊璽と仏式の位牌の違いを見るとき、霊璽はその特徴の一として考えられるようです。
 神道では、亡くなった親族の方の祖霊を霊代(みたましろ)にお祀りします。この霊代には霊璽が用いられたり神鏡・幣串や笏、また故人の遺品を用いる場合もあります。このように霊代には色々と種類があるわけですが、現在では霊璽を用いることが多いようです。
 霊璽は、元来、中国の儒教で、祖先祭祀を行う際の祖霊の霊代としで用いられ、木主(ぼくしゅ)・神主(しんしゅ)ともいわれたものです。これが仏教にも受容され、日本では中世の初めて禅宗で位牌が用いられ、江戸時代に広く普及しました。
 近世以降、神職や学者により我国固有の葬儀の形を求めて、神式の葬儀(しんそうさい)を考究する様々な動きがあり、この中で、祖霊祭祀に対する考え方が近い儒教の制も参考としました。現在の霊璽の形が、儒教の
ものと似ているのもこうした理由によりものです。
 さて、神式の霊璽の蓋についてですが、ほかに霊代として用いられる神鏡にも樋代(ひしろ)という蓋がされたり、幣串や笏がトクという厨子に納められるのと同様に、祖霊の依代となる霊璽が、直接、人の目に触れることを避けてのことと考えられます。これは仏教と神道の根本的な性格の違いとして指摘されるように、仏教では本尊とされる仏像でも拝観の対象となりますが、神道の場合、神は形として目に見えぬ霊性であるといった考え方にも関連することと思われます。
 また、日常は蓋をしたままの状態でお祀りをし、年祭や春秋季霊祭(彼岸)、また中元祭(盆行事)などのお祭りに際しては、蓋を取る事もあります。

               「神道のいろは」より


仏教から神道に改宗するには

 信仰は心的なものであり、特に神道では、キリスト教やイスラム教に見られる信仰告白などのような改宗に伴なう儀礼はありません。神道は我国の伝統的な習俗や日常的な儀礼に基いた信仰であり、こうしたことを日々の生活の中で実践することが神道を信仰していることになるからで神道への信仰は、他教ように一宗一派に入信するといった考え方によるものではないといえます。
 毎年発表される各宗教団体信者数のうち、神道は日本の全人口と比しても、かなり人数の多いものとなっていますが、(宗教年鑑)、惟は神社の場合、基本的に氏子区域内に居住する方を全て氏子と考えていることなども理由の一つとして考えられます。一人の方がお寺の檀家であり、また神社の氏子でもあるという複数の信仰を持つ事を意味しますが、神道と仏教の密接な歴史や、古くからの日本人の信仰の在り方に鑑みても違和感の無いことといえます。
 その中でも、神道を信仰しているということを象徴的に表すことといえば、その家の先祖祭祀を神道でおこなっている点が考えられます。
 具体的には、各家庭には、仏壇でなく神式の祖霊舎を設けて、位牌の代わりに霊璽が祀られることとなります。神職により神道に改宗する旨を先祖の霊前(墓前を含む)に奉告し、仏式の位牌から神式の霊璽へ御霊を遷す祭りがおこなわれ、過去帳の代わりに霊簿が用意されます。この際、仏壇や位牌は今までの祖先が祀られてきたのですから、粗相のないよう取り扱う必要があります。
 また、墓所の祀り方も神式となるため、墓石や墓誌に法名が刻まれている場合には、神式の霊号(諡名・おくりな)に改める必要もあります。墓所が公営霊園にある場合は問題ありませんが、寺院付属の墓地の場合、寺院とのトラブルが無いようにしなければなりません。
 いずれにしても、改宗は個人的な問題とともに先祖祭祀を含めた家庭祭祀の変更でもあるため、身内とよく話しあった上で、葬儀や年祭を奉仕してくれる神職に相談する必要があります。

「神道のいろは」より